1948年、セイロンは独立しました。しかし、国が独立したことと、茶園で働く人々が同じように政治的な権利を得たことは同じではありませんでした。
茶業の歴史には、植民地から独立国家へ移る政治史と、農園で働き続ける人々の生活史のずれがあります。
独立は誰を市民にしたのか
1948年のCeylon Citizenship Actと、続くIndian and Pakistani Residents Citizenship Actは、インド系タミルの市民権をめぐる大きな問題を生みました。移住してきた人々だけでなく、セイロンで生まれた世代も、書類、居住、父系、登録条件によって政治的権利から外されることがありました。[7]
ここで大切なのは、茶業が外国人労働力だけで動いていたのではないということです。独立後も島に住み、働き、税を払い、子どもを育てた人々が、完全な市民として認められない状態に置かれた。茶業の「成功」と市民権の排除が同じ時代に並んでいたのです。
1970年代の国有化
1972年から1975年にかけて、スリランカでは土地改革と国有化が進み、私有の茶・ゴム・ココナツ農園が国家の管理へ移されました。History of Ceylon Teaは、1972〜1973年に政府が502の私有農園を引き継いだと説明しています。[2]
国有化は、外国企業や大土地所有に対する国家の主権を強める政策でした。しかし、所有者が会社から国家に変わっても、労働者がすぐに土地の所有者になったわけではありません。
管理組織、経営能力、再投資、労働関係、政治的介入などの問題が残りました。国有化を「解放」とだけ書くことも、「失敗」とだけ書くことも、資料を粗くします。
1992年の民営化と地域プランテーション会社
1992年、国有化された農園の経営は、地域プランテーション会社へ再編され、民間運営へ移行しました。研究資料では、茶園を含む農園部門の公的所有が1992年に反転し、地域プランテーション会社へ移ったと説明されています。[8]
民営化の目的には、国家財政の負担軽減、経営効率、再投資、輸出産業の競争力がありました。しかし、経営効率が上がることと、労働者の生活が豊かになることは同じではありません。
企業は、コストを下げる必要があります。労働者は、生活できる賃金と休みを必要とします。茶価が変動し、気候リスクが増え、肥料や燃料の価格が上がれば、両者の緊張は強くなります。
所有者が変わっても残る構造
植民地会社、国家、地域プランテーション会社。所有者や管理方式が変わっても、斜面の茶園で葉を摘む作業は続きました。
歴史を見るとき、制度の名前が変わったことだけで、生活が変わったと判断してはいけません。住居、通勤、医療、学校、賃金、休日、作業量、身分証明、土地への権利を比べる必要があります。
農園の「王国」は、王が変わっても、城壁のような構造が残ることがある。第4回では、その城壁に対して組合と集団交渉がどんな役割を持ったのかを見ます。
真実性評価
| 主張 | 評価 | 注意 |
|---|---|---|
| 独立後、インド系タミルの市民権が大きな問題になった | 高 | 法律本文と研究を併記する |
| 1970年代に大規模な国有化が行われた | 高 | 法律・対象面積・農園数の定義を区別 |
| 1992年に民営化と地域プランテーション会社化が進んだ | 高 | 経営移管と土地所有を区別 |
| 国有化は労働者の解放だった | 低〜中 | 所有者変更と権利実現は別 |
| 民営化は労働者の生活を改善した | 中 | 経営・賃金・雇用条件を個別に検証する |
第3回 参考文献
[7] Sri Lanka Department of Immigration and Emigration, History of Immigration, Emigration and Citizenship [8] G. Ganewatta, The Sri Lanka Tea Industry [9] G.H. Peiris, Land Reform and Agrarian Change in Sri Lanka連載案内:本連載では、スリランカ茶業の成立と変化を、土地・資本・労働・制度・価格の歴史として読み直します。次回も順次公開します。


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